1月10日 読書日記②


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エレンディラ

ガルシア・マルケス

 

短編集なのだけれど、それぞれの話に繰り返し出てくるイメージがあって、死、海、孤独、愛、アメリカの影、旅芸人、香具師、貧しい土地、バラなどで、海やバラも死の象徴のような形で語られる。

どれもこれも結構悲惨な話なのだがあんまりそういう感じがしないのは文体のせいで、夢と現実の境界線が曖昧というか、現実でもそれが夢の世界の言葉で語られると我々が知っている悲惨さの固まったイメージというか、考えなくてもわかる悲惨さはどこかへ行ってしまって、いちいち考えないとわからない悲惨さ、書いてある事実だけ拾えば確かに悲惨なんだけど何故か、何なら読んでいてちょっと笑ってしまうような何かなんだけど、それを悲惨と言わずになんと言えばいいかわからない何かが、ずっと語られていく。

訳者による解説で、そういう文体、現実的なことを非現実的に、非現実的なことを現実的に書くような文体のことを「魔術的リアリズム」というんだということを教えてくれたけれど、私は二つ目の「失われた時の海」に出てくるある一段落に全部持っていかれて、そこを起点にして全部読み通せた。

 

‘’トビーアスは九時を回ってもまだ村じゅうの人が起きているのに気づいた。人びとは戸口に腰をおろし、カタリーノの店の古いレコードに耳を傾けていたが、そのようすには日蝕を眺めている人のような子供っぽい宿命観が感じられた。レコードを聞いていると、亡くなった人のことや、長い病気のあと口にした食物の味や、翌日、あるいは何年も前にしなければならなかったのに、うっかりしてそのまま放ってあることなどが思い出された。‘’

 

これは、死んだ人を埋葬する土地がなくて、人が亡くなったら崖の上から海へ放り投げる貧しい町で、死んで海に投げられたくないから死ぬ前にどこかへ移って、生きたままそこで私を埋めてちょうだいと夫に頼んでいたある老人の奥さんが亡くなって、やっぱり海に投げられてしまったあと、その町にレコードの音が流れている、という場面。