7月23日

もともと食に興味がないというか、食べ物に情熱を持たないのだけど、越してきてからはまともに料理をしなければ毎日を精神的に維持できないと感じて、やっている。

 

姫路のときは、徒歩3分以内にお惣菜の美味しいスーパー、コンビニ、調理済み食料品がたくさん置いてあるドラッグストアが揃っていて、僅かな「料理しないとな…」という意識が日々削がれていた。いや、大して意識もなかったし、まだ精神が実家とひと続きになっていて、一人で暮らしているという感覚が薄くちょっと離れた一人部屋くらいの意識だったかもしれない。

こちらに来てもうすぐ一ヶ月経つが外食や出来合いのものは殆ど食べていない。それは食への情熱が湧いてきたからではなくて、生活とは。ということを実家に戻った5ヶ月間ずっと考えていて、買い物して、料理して、食べて(食べさせて)、片付けて、というのが生活の割と大きな部分を占めているということを見て、私は生活のことをずっと軽視していたし、本当の生活を知らないと思った。それでまずはまともな料理だ、と思ったのだが、いざ一人になって、それは本当にそうだった。

実家から姫路と神戸は距離的にはそんなに変わらないのだが、私はこちらに来るときは、なぜか姫路と違ってもうずっとこちらにいる前提で来た。姫路へは、一時的な避難のような感覚だったかもしれない。姫路の2年間を経て、いよいよ私は一人で暮らしたいと思える場所を見つけ、それで来たら、いよいよだ‼という新たな気持ちよりも全然(本当に全然!)寂しくて仕方ない。毎日寂しくて、新しい職場の人が優しくても、お気に入りの喫茶店を見つけても、どうしても寂しい。そこで私が無意識にやりだしたのが料理で、それと掃除とそのへんを歩き回ることだった。

生活とは寂しいもので、それは一人暮らしだからということではなく、生きて生活することはそもそも寂しいことで、生活を本当に始める第一歩はその寂しさに気づくことで、寂しいと人は料理して、歩く、料理や歩くことの中には、寂しさを紛らわすのではなくて、客観視したり受け入れたり分析したり、気付いたことや気づきそうなことを深めて考えるきっかけになる何かがあるのか?

 

で、その辺りのことを今別の文章に書いている。